月の珊瑚1
『坂本真綾の満月朗読館』最終夜·月の珊瑚
歌手:坂本真綾
专辑:《『坂本真綾の満月朗読館』最終夜·月の珊瑚》

《月の珊瑚》
奈須きのこ

(一)
眉唾な話だけど
わたしのおばあちゃんは
月からやってきた人らしい。
今年もいよいよ終わりが近づいてきた。
十一回目の満月の夜
あと一ヵ月後に今年は死んで
なんの約束もない次の年を迎える。
その時までわたしたちが生きている保証は
あの透明な海月ほどもない。
今の人類にとって
月日とは失われるもの
死という単語はあらゆるものに適用される。
聞くところによると
むかしの人たちは
もっと明るい価値観を持っていたらしい。
暦は消費するものではなく循環するもの
巡るものとして扱われていたとかなんとか。
要は同じ情報の使いまわしだ
節約にもほどがある。
かつての人類は贅沢だったというけれど
私たちから見たら大した倹約家だと思う。
ただいま西暦、たぶん三千年ぐらい。
人類はとっくに終わっていて
毎日は繰り返される保証はなくて
その代わり誰も争わなくなって。
人間が何千年もかけて積み上げた文明は
ぜーんぶ空に捨ててしまって。
わたしは十何回目かの求婚をふわりとスルーして
今日も今日とて
島の高台から海岸線を眺めている。
「空に水、水に空。
月の空には砕け散った海がある」
光る海を見ていると
知らずおばあちゃんから
教わった歌がこぼれてしまう。
正確には
おばあちゃんのそのまたおばあ
ちゃんから伝わったもので
言葉の意味は分かるものの
その真意は読み取れない。
祖母を悪く言うようで気が引けるけど
少女趣味が過ぎるというか。
終わりの見えた毎日なのに
夢の中にいるような人だった。
母も祖母も
そのまた母も同じような趣味で。
同じように
たいへんな美人だったらしい。
残念ながら
わたしはちょっと型落ちだ。
母ほどの美しさはないし
なにより少女らしさに欠けている。
それでも求婚者が後を絶たないのは
ひとえにこの島のおかげだろう。
「おや。アリシマの君のお帰りですか」
風を感じて空を見上げると
真っ黒い飛行機が飛んでいくところだった。
ごう、という逞しい駆動音。
月光を遮って浮かびあがる最後の文明
あるいはその名残。
鋼の機体は鈍く強く輝きながら
東の空を目指していく。
撃墜マーク、これにて十六人目
しかも今回は新記録だ。
わたしはいつも以上の無理難題を押しつけて
一日のうちに求婚者を追い返した。
島でも前代未聞だと怒られたけれど
今日ばかりは仕方がない。
満月の日にやってくる相手が悪い。
場の空気を読め、というヤツである。
酸素は薄くなったけど
愛を語るのならそれぐらいは常備してほしい。
わたしの住む島は
人口五十人足らずの小さなコロニーだ。
都市のある本土は海を隔てた遙か彼方。
島には港がなく
三日月形の海岸には
島特有の珊瑚礁が広がっている。
島の人々にとって
珊瑚礁はごく普通のものだけど。
都市部の人々にとっては
宝石より価値のあるものらしい。
おばあちゃんの頃から
この島は聖域として扱われている。
海から入ることは固く禁じられ
飛行機なんて貴重品を持っている人
しか上陸できない。
わたしがお姫さんと呼ばれるのも
本土の人たちにとって
この島が特別なモノだからだ。
人類復興の希望の星、と彼らは言う。
わたしたちにとっては極めて日常的な
いつ終わっても
『そんなものか』的な環境にすぎないのだけど。
「でも残念。
空は飛べても
月のサカナはやっぱり無理なのね」
わたしは毎回
求婚者に無理難題を押しつける。
今回のお題は月のサカナだった
月は一方通行の世界だ。
行く方法はまだ残っているらしいけど
帰ってくる方法がないらしい。
行くだけなら現実的だけど
戻ってくる事はできない。
生きていながら見る事のできる
現実的な死の世界。
月に行け
というだけでも酷な話なのに。
その上
居るはずのない
サカナを取ってこいというのだから。
アリシマの君が怒って帰るのも頷ける。
けれど誓って
わたしは本気なのである。
難題をこなしたのなら
誰であろうと一生を捧げる覚悟。
だってそれぐらいでしか
わたしは愛を測れないから。
この星からは多くのモノが失われたけれど
その最たるものは
人を愛する気持ちだという。
月が死の世界になってから幾星霜。
いや
人間にとっては初めから死の世界だったから
元に戻った、と言うべきか。
月への移住計画は
増えすぎた人口対策の一環だったという。
月は新しい開拓地になって
移住した人々は月面に都市を
国家を作るに至った。
けれどその後、あの大災害が訪れた。
地上もポールシフトで大変だったらしいけど
人類に訪れたものはもっと決定的で
かつ形のないエンドロールだった。
なんというか。
人類は唐突に、情熱を失ったのだ。
それは開拓への熱であり
解明への熱であり
繁殖への熱だった。
うちの息子が引きこもったのです
なんてレベルではなく
人類規模で
『何もかもどうでもよくなった』のだ。
こっち側の人たちは
文明のほとんどをあっち側に押しつけた。
地上では文明がなくても生きていける
でも月では文明なくして生きてはいけない。
なので地上の人たちは
『人類の叡智を保存するのはおまえたちの役割だ
我々は正直、もう面倒になった』
なんて風に
すべてを月に預けてしまった。
その後
わずか半世紀で
月と地上は没交渉になった。
どちらの人類も
もう交換するものはない
と閉じこもった。
こっちはこっちの資源だけで
なんとか回るようになっていたし。
月も月で
必要なだけの環境は整えられた。
月の明かりが途絶えたのは
それから何十年か後の事らしい。
一方、地上の人口も激減していった
なにしろ増やす気がなくなったのである
放っておけば五十年ほどで種は途絶えてしまう。
それでもなんとか生き延びているのは
十人に一人の割合で
“まだ頑張れる”物好きがいたからだ。
自分だけで手一杯なのに
他人にまで気を配れるというマメな人たち。
そんな物好きたちが集まって作り上げた
『かつての』人間の集まりが
都市部と呼ばれる生活圏。
行ったコトがないので詳しくはなんとも
名を人類復興委員会
生命の基本に立ち返ろう、という運動
その原理を愛という。
わたしにはそれが本気で分からない
気持ち悪いのではなく
互いを思い合うという状況が
どんなものなのか想像できない。
それはほんとうに気持ちの良いコトなのだろうか
きっと不具合しか生じない。
もっと系的なもので相互補助した方が
よっぽど気持ちはいいと思う。
そこには安心があり
打算があり、明確な作業がある。
見えもしない相手の心を理解しよう
なんて行為は、それこそ現実的ではない。
このように
わたしが求婚される度に
無理難題を押しつけるのは。
自分では愛が測れないから
相手に測ってもらっているだけなのだ。
わたし以上に価値のあるものを手に入れて
なお引き替えにできるなら。
その人は確かに
わたしを必要としているのだと証明できる。
殿方も人間も好きだけど
愛だけは理解できない
でもそれなりに幸福だ。
太陽と水と空気があれば
なんとなく生きていけるのがわたしたちだし。
あぁ
こんなだから人間は終わってしまったのでしょう
と自己嫌悪もなくはないけど。
「星はまたたく、海はさざめく
人恋しくて珊瑚は謳う。
わたしたちは海月みたいに
ふわりふわりとその日ぐらし」
暗い野原で歌いながら
くるくるとステップを踏む。
「おや。人生を海月に喩えるとは、また力強い」
そんなわたしの独白をさえぎる声
見えない膜に包まれたような
男の人の声だった。
「失礼……さん、というのは貴方ですか?」
名前を呼ばれて振り返ると
妙チクリンなものが浮いていた。
ランチバッグ程度の大きさの
ブリキの乗り物
お刺身を載せる舟みたい。
その上に
これまたブリキで出来たような人形が乗っている
人形の表面はヤカンみたいにつるつるで
どこもかしこものっぺらぼう。
顔の部分には透明な覗き穴があるのだけど
月の光が反射して
中の様子は分からなかった。
ともあれ
名前を呼ばれた以上は
挨拶を返さなければ。
「こんばんは。はじめまして
でいいのかしら?」
「これはご丁寧に、私こういう者です」
ブリキの彼は小さな紙切れを持ち出した。
何に使うものかは分からないけど
丁寧に差し出してくれたので
こちらも丁重に受け取った。
「島の外から来た人?」
「はい。貴方に会いに来たのです。
ご迷惑でなければ
お話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
わたしは今度こそ目を丸くして
失礼なコトにまたたきなどしてしまった。
新しい求婚者?珍しい。
いろんな人たちに会ってきたけど
手のひらに乗るぐらいの人は初めてだ。
「いえ、自分の職務は配達なのです
この島に訪れたのは仕事が半分
個人的な趣味が半分です」
膜のかかったような声は
あのブリキの服ごしだからだろうか。
ふわふわ浮かぶ小さな舟と
見たこともない格好の来訪者。
わたしは興味を抑えられず
つい、会話より観察に没頭してしまった。
ブリキの彼は気にした風もなく
いまの時刻とか、今の年代とか
今の気候なんかを話しはじめた
世間話のつもりらしい。
わたしはもちろん空返事
会話はこれっぽっちも成立しない。
言葉はほどなくして尽きた
小さな彼はやや困ったように頰を搔いている。
わたしは自分の身勝手さを恥じて
会話のソースを提供する。
「さっき、趣味が半分って言っていたけど?」
「はい。私は商人もしているのです。
貴方を訪ねたのもその一環です。
貴方の持つ物資と
私の持つ物資を交換したいのですが
いかがでしょうか?」
必要なものを仕入れにきたのです
と彼は言った。
わたしは本気で困ってしまう
だって
こんな珍しい人が欲しがるモノなんて
この島には何処にもない。
「他をあたるべきよ
わたし
そんな貴重なものは持っていないわ」
「いえ、商人の基本は
足りないモノを買う
というコトです。
こちらで貴重とされるものは
私には有り余っています
ですから、その逆もあるのです。
物語を知りませんか
どこにもない
出版されていないものです」
わたしはまたも
特に理由はなく
ブリキの彼をまじまじと見つめてしまった。
大人のように落ち着いた彼が
子供みたいな要求をしたからだろうか。
すとん、と言葉が胸に落ちる。
普段なら馬鹿にするところなのに
わたしはごく自然に
その仕入れに協力したくなっていた。
「それなら一つ
お望みの歌があるわ
おばあちゃんから教わった話だけど
それでいいかしら」
「口伝とはまた高価なものを。
ですが申し訳ありません
私は貴方たちの言葉を正しく聞き取れないのです
お手数ですが、文字にしていただけませんか」
ブリキの彼は
わたしたちの言葉に疎いらしい。
よく今まで話せたものだと呆れたけれど
振り返ってみれば
そんな流暢には会話していなかったっけ。
「無理よ。わたし、読み書きができないもの」
「ええ、存じ上げております。
次の満月に帰りますので
それまでに本にしていただければ。
ですぎた真似ですが
私がご教授してさしあげましょう」
彼はとん、と胸を叩いた
任せろ、という表現らしい。
ちっとも頼もしくない
勉強不足がこんな事で祟るなんて。
人類はとっくに終わったのに
わたしの人生は波乱含みだ。
それは、まあ、それとして。
「ところで。海月が力強いって、どうして?」 
「ずいぶんと昔の話ですが
海月の仲間の一つが
細胞死による老化問題を解消しています。
永続を実現させた数少ない動物です
海月というのは
存外にたくましい生命なのです」
彼はやっぱり
丁寧な口調で小難しいデータを返した。

(二)
むかしむかしのお話です。
影の海と名付けられた荒野に
少女の姿をした
一つの石がありました。
美しい亜麻色の髪
あどけない瞳と薄桃の唇。
しなやかに伸びたヒトっぽい手足
しみ一つなく、デコボコもなく
磨かれた石灰のような肌。
それは人の美意識の統計によってかたどられた
万人に愛される少女像でした。
もとからそういうカタチだったのか
後からそういうカタチになったのか。
ピグマリオンの伝説も
ここでは遠い異国の話。
はっきりしているのは
彼女は生まれながらのお姫さまで
多くの人たちに望まれて
目を覚ましたというコトだけ。
世界は一面の荒野でしたが
彼女のまわりにだけはくるぶしほどの深さの湖と
見上げるばかりの花弁が咲いています。
もちろん
石灰を彫り込んだだけのニセモノですが。
空に氷、氷に空。
この冷たい星を
温かな氷で包んでほしいと
彼女はお願いされました。
誰にお願いされていたのかは
もう定かではありません。
彼女が生まれた時には大勢の人がいたけれど
少しうたたねしている間に
みんなキレイに消えさってしまったからです。
ひとりぼっちになったところで
彼女は多くの仮説を楽しみました。
まずはシステムの不備でみんな死んでしまった説
でも
彼女が生きているかぎりそれはありません。
必要なモノは今も供給しているし
不慮の事故での全滅はないでしょう。
次に、みんな眠っている説
起きているのも面倒になったので
いっせえのせでまぶたを閉じた
可能性も大ありです。
仕方なく星の表側に感覚を伸ばしてみましたが
人々の反応はありません。
彼らは本当に
この国から消え去ってしまったのです。
あれこれ仮説を潰していく中
ふと、彼女はこの国の法律を閲覧しました。
司法曰く、こちらの住人は
あちらの住人との恋を禁じる。
このルールを破ったものは
地上への落下刑に処す。
もしかすると
人々はその罰でみーんな
あちら側に落ちていったのかもしれません。
うんうん、と彼女は頷きました。
いえ、首は一ミリも動かないので
気持ち的に頷きました。
信憑性はこれがいちばんだったのです。
それでも彼女は真面目だったので
望まれた仕事を続けます。
まず都市部への余分な元素提供をカット
娯楽施設はもう必要ありません
その分を環境調整に費やします。
影の海は半世紀ほどで
樹木と空を完備した都市になりました。
樹木は石灰で
空は氷を張っただけのニセモノですが
とにかくオーダーには応えたのです。
人々が望んだコトは
人々さえいなければ
こんなに簡単にできることでした。
月に七つの海を作ってからさらに半世紀。
望みを叶えれば戻ってくると思われた人々は
けれど影も形もありません。
音のない世界にひとりきり
ときどき、人々は追放されたのではなく
自分だけこの星に追放して旅だったのでは
と真実に気付きそうになる事もありましたが
あくまで仮定なので
ひび割れるコトもありません。
彼女は氷に映る
ここからでは決して見ることのできない
青い星を見あげます。
人々はあの星に旅だったのでしょうか。
せっかく美しい森を作ったのに
誰も見てくれないのでは
それこそ骨折り損というものです。
なにしろ彼女は
この森になんの思い入れもないのですから。
ある日のことです
砂を踏む気配で目が覚めました。
そういえばちょっと前に
こつん
と体に何か当たった気がする彼女でした。
意識を起こすと
驚いたことに
並木道を何かが歩いてきます。
ずんぐりとした体格
可動範囲の少ない歩行。
自分と同じかそれ以上の
すべすべで単色の肌。
それはブリキで出来たヤカンみたいな
およそこの世の美意識とはかけはなれた
冗談みたいな生き物だったのです。
彼女は驚きに目を見はりながらも
未知の体験に胸を躍らせました。
だってはじめて、そして遂に
この星に宇宙人がやってきたのです!
「待て。
話が違う
なんだって月面に宇宙人がいる?」
まあ、それも彼女の勘違いだった訳ですが。
やってきたのは地上から昇ってきた人間でした
宇宙人と言えば確かに宇宙人なのですが。
今までの人々と同じく
会話をするコトはできません
彼女には喉がないのです。
それでも彼女は今まで通り
彼の独り言を解析します。
分かったのは些細なコト
彼は周囲の反対を押し切って
自分からこの星にやってきたらしいのです
辿り着くコトに意味のない。
発つ理由も
見返りもない一方通行の旅を、ひとりで。
「そうか。生存の為の物資はあっても
精神面での不足は解決できなかったのか。
自滅とは、さすがは地上より進んだ文明だ」
彼は都市の機材を使って
かってに生活をはじめました
ゆうゆうじてき、というヤツです。
彼は十二時間周期で彼女のところにやってきては
タンクに水素が溜まるまでの間
独り言を続けます。
「人のカタチをしているからといって
人間の文化を押しつけるのは
傲慢ではないだろうか」
彼はそう言って
彼女のドレスを脱がせようと試みましたが
それは全力で阻止しました。
信じられないでしょうけど
彼女の体が彼女の思った通りに動いたのは
これがきっかけなのでした。
「昨日は申し訳ないことをされた
あやうく火星まで飛ばされるところだった。
ここが地上なら
今ごろ君は檻の中だ。
君には少し
人間の機微を教授しなくてはならないようだ」
彼は当然のように彼女の助けを受けながら
こんな辛辣なコトを言うのです。
それでも彼の語りは新鮮で
ふしぎな親近感があるのです。
この状況なら
誰であれいい人に見えてしまうと思うけど。
それはあえて追及しません
彼女にとって彼は新しい世界でした。
“こんな素晴らしい方が
どうして死の世界にやってきたのだろう?”
信じがたいコトですが
彼女は彼のために
そこまで心を痛めたりもしたのです。
多くの仮説から最有力候補にあがったのは
彼も人々と同じだろう、というものでした。
こちらの世界の住人があちらの住人に恋をすると
罰として落とされる。
それと同じように
彼もこちらの住人に恋をしたから
ここまで昇ってきたのではないでしょうか。
ですが皮肉なコトに
こちらの住人はみな消えてしまいました。
彼は恋のためにやってきて
元の世界に帰る術をなくしたのです。
彼女は悲しくなって
せめてよい暮らしを
と今まで以上に励みました。
けれど
「無駄な消費はよくない
無制限に使っているが
底をついたらどうしてくれる。
君が枯渇したら
こちらも共倒れなんだぞ」
彼女の行為はいつだって空回り。
この頃には人間の言葉も覚えて
発声器官もまねて発話をしますが
彼は聞く耳を持ちません。
むしろ
人間らしく話しかければ話しかけるほど
嫌悪感をあらわにしていくのです。
彼女は彼のために色々なものを用意しました
かつてないほど頑張りました。
生命の原理
原子の法則をねじまげるぐらい努力しました。
もう説明する必要はないでしょう
彼女は彼に、それほどの恋をしたのです。
“とても素敵なヒトでした
わたしのような石に
生命の定義をしてくれたのです。”
いまも
その言葉は多くのサンゴに焼き付いています。
なのに彼は礼も言わず
ただ消費するばかり。
“わたしはヒトに近づけたでしょうか?”
そう語りかけるように氷の下で踊ります。
彼女の両足が地表から解き放された
はじめての日のコトです。
「どちらかというと
君の体は珊瑚のようだ」
思えば
それが一度きりの褒め言葉でした。
いや、でもおばあちゃん
これは褒め言葉じゃありません
嫌みだと思います。
でも彼女は
その言葉がとても
とても嬉しかったようなのです。
それから十二時間はずっと
珪素で出来た自分の体が誇らしかったほどに。
月日にすると半年ほど
ふたりの時間は続きました。
終わりはあっさりしたものです。
彼は船を修理しきると
彼女を抱きかかえて船に乗り込みました。
彼女はここのところ弱っていて
動くこともできなかったので
乗船も
その後の処理も
簡単に済まされてしまったのです。
影の海を離れるのは不安でも
彼がいるのなら喜ばしい。
彼女はせまい
ひとりぐらいしか乗るスペースのない船の中で
幸せそうに目をつむります。
「人間がイヤで
何もかもを見限って
月に昇ってきた」
声は船の外側から。
今まで誰もいなかった
これから誰もいなくなるはずの
荒野から響いてきます。
「そんな私が、人を愛する道理がない」
体は動きません。
気付いても、扉は開きません。
彼女はもう星から離れてしまったから
星も動いてはくれません。
星を覆っていた氷の空は
夢のように砕けていきます。
「君が私に向けている好意は
愛情ではないと思う。
単に、君が人を知らないからだ」
彼女は覗き窓にすがりついて
忘れていた掟を思い出しました。
あちらの人間に恋をすると
罰として、永遠に別れるのです。
「動物的な感情を満たしたいだけなら
あの地上には相応しい相手が山ほどいる。
君はそこで生きればいい」
ああ、彼はここに残るのだと
彼女は嘆きました。
同時に
それが彼にとっていちばんいい選択なのだと
理解してもいたのです。
「しかし。君はどうあっても
あの星にとって善いモノではないだろう。
私は地上の人間を
二度殺すことになるな」
以前の彼女からすればちっぽけな火花。
今の彼女にすれば
恐ろしいほどの光と熱を吐き出して
船は地表を離れていきます。
銀色の大地。
彼女そのものだった世界が
他人のように遠く遠く。
ヒトになりかけていた彼女の目には
遠ざかる小さな星。
暗い海に独りきりで
きらきらと輝くのです。
けれど
青い宙を航る最中でも
彼女に涙する時間はありませんでした。
彼は本当にひどい人間で
彼女の安全なんて配慮していなかったのです。
船には地上の重力圏に
入るだけの燃料しかなく。
六倍の重力下での不時着に
耐えきれる設計ではありません。
船は空で分解し
彼女はそれはもう悪い冗談のように
真っ逆さまに青い海に落ちました。
それがこの島の始まり。
彼女は一命を取り留めましたが
落下のショックで
記憶がところどころ欠けてしまいました。
島に新しい珊瑚ができたのはこの時から。
彼女はここで暮らし
子を育み、生涯を終えました。
ただ、毎月。
満月の夜になると空を見上げては
幸せそうに笑っていたというコトです。
かくして、わたしのはじめての創作は
無事終わりを迎えた。
「ところどころ貴方の主観がまじっていますね
一部、特定の人物の描写に偏見もみられます」
このように
ブリキ編集には
三回ほどダメ出しをもらっていたが。
明日は満月。
わたしはまる一ヵ月
小さな配達人に
物書きを教えてもらっていた事になる。
彼はこちらの言葉をうまく聞き取れないため
会話はたまにすれ違いはしたものの
おおむね刺激的な時間だった。
はじめこそ彼の姿に面食らっていたけれど
数日のうちに物珍しさはなくなった。
あいかわらずガラスの反射で
ブリキの中は覗けないけれど。
彼は真面目で
好奇心旺盛で
なにより正直だった。
はじめから
噓も誤魔化しも覚えない生き物のように。
「読み終えました
感想を口にしてよろしいでしょうか?」
丁寧に訊ねられて
緊張気味に頷いた。
昔話を文字に起こしただけとはいえ
なかなかに気恥ずかしいものがあるのである。
「どうぞ。お手柔らかにお願いします」
「私の知っていたものとは大分違いますが
たいへん楽しませていただきました。
この彼女は、実に可愛らしい方ですね」
「そうかしら。
少し無防備というか
平和すぎると思うんだけど。
どのへんが気に入ったの?」
「行動に揺らぎがありません
正直な人だったのでしょう。
周りが見えていなかったのは
一つの事だけを信じたからです」
「ずいぶんと肩入れするのね
そんなの
わたしの本だけじゃ断定できないのに」
「できますよ
ひとかけらの後悔も見られませんでしたから。
彼女から読み取れるのは
最後まで幸福であった事実だけです」
わたしは押し黙ってしまう
そんなつもりはなかったのだ。
わたしはむしろ
反感をこめて筆をとっていたはずなのに。
わたしから見れば
この本はひどい物語だ。
そう
子供の頃から
おばあちゃんの話には疑問があった。
尽くした末に捨てられたのに
どうして彼女はあんなにも幸福だったのか。
裏切られてもかまわない献身が愛だというのなら
わたしはやっぱり
そういうものとは反りが合わないと思う。
「わたしは悲劇として書いたつもりなんだけど」
「彼女の主観は、貴方の主観です
貴方たちはそういう生き物だ。
母方の記憶を自分のものとして受け継いでいます
ですから、どんなに反感を持っていても
この物語の根本からは逸脱できない。
貴方がどう思おうと
貴方の遺伝子には
原初の気持ちが刻まれているのです」
「……よく分からないけど
お眼鏡にかなった、ってコトでいいの?」
わたしの声は少しだけ不機嫌だった。
彼はこくん、とブリキの頭を上下させる。
「私の期待とは違いましたが
それ以上のものを頂きました
お気に入りの一冊です」
「期待? 何を期待していたの?」
「珊瑚の話です
私の国からでは
この島の珊瑚はとても不思議に映るのです。
どうしてこの島の珊瑚は光るのか
貴方なら知っているかと思ったのですが」
この島唯一にして、最大の特産品。
満月の夜に光る珊瑚。
珊瑚のカタチをしたあの樹木たちは
周期的に大量の酸素やら
窒素やらを生みだしている。
結果として
少しだけ人間の歴史を延命させているそうだけど
そんなのはどうでもいい話だし。
わたしにとっても別段
とりあげる事項ではなかったのだ。
「貴方たちにとって
明かりを灯す珊瑚は当たり前のものなのですね。
おそらく
あの発光はただの生態機能でしょう
こういった偶然もあるのだと判断します」
それだけ言って
彼は舟の中に隠れてしまった。
いや、潜っていった。
ほどなくして
彼は自分と同じぐらいの大きさの包みを
引っ張り出してきた。
「もうどこに届けていいものか困っていましたが
調べた結果
貴方が受取人に該当するようです。
これは取引ですが、私の職務でもある
どうぞ、お受け取りください」
包みには貝殻が一つ
真っ白い、銀河星雲のような貝殻だ。
わたしは直感的に貝殻を耳にあてた。
ざあ、ざあ。
巻き貝の渦巻き構造
オルガン官の螺旋が
波の音を反響させる。
ざざ、ざざ
CQCQ、聞こえますか。
波のざわめきの後から
静かな記録が伝わってくる。
……ああ、これはレコーダーだ。
何処か、遙か、見知らぬ人の物語を
音として記録している。
「私には意味が分からないものです。
一日預けますから
気に入ったのなら貰ってください
その本と引き替えです。
それでは明日」
小さな彼は舵を握って
船頭を空に向ける
わたしはあわてて声をかけた。
この者の加速力
機動性はなかなかに侮りがたく
目を離すと一瞬で飛んでいってしまうのだ。
悔しいことに
捕まえられたコトは一度もない。
なんでしょう?と振り返る彼に一言。
「評価をまだ聞いてない。それで、点数は?」
「いやだな。
本に点数をつけるなんて
できませんよ」
照れくさそうに言って
舟は西の空に消えていった。
はじめて聞いた
感情のこもった
人間らしい声だった。
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